Geisha Confidential Chapter 1 (Jpn)


第一章  忠犬ハチ公

渋谷駅を出たところに、飼い主に忠誠を尽くしたハチ公という名の犬の銅像がある。〈銅〉待遇のハチ公は、毎日、九年もの間、この場所で飼い主の帰りを待っていた。飼い主の大学教授が講義中に脳卒中で倒れて帰らぬ人となった後も、あいにく、誰もこの犬にその死を伝える者がいなかったからだ。

それからほぼ一世紀が経った今、私はうだるような暑さの八月のある日、このハチ公前で、小野健を待っていた。私の親友かつ以前の右腕、クリス・ダックワースの最後のボーイフレンドだった人物だ。〈最後〉と言ったのは、ダックワースは、ある事件を一人で追っているときに殺害されたからである。

私は手を伸ばしてハチ公のつま先を軽く叩いた。「お互い」と、私は語りかけた。「待たされる身だな」

「いつもそうやって銅像に話しかけるの?」

数えきれない人々がひしめく駅前の広場で、声の主を見極めるには少し時間がかかった。相手は、フリルの付いたサマードレスと、水色のリボンの付いた麦わら帽子を身にまとった華奢(きゃしゃ)なアジア人女性だった。長いストレートの髪型で、目が異様なほどに大きく、輝きを放っている。淡いピンクの口紅を塗った口元に、茶目っ気のある笑顔を浮かべて、おしゃれっぽく斜めに帽子をかぶっているせいだろうか。あどけなさと艶(つや)っぽさが同時に漂っている。それに、周りにいる大勢の汗まみれの庶民とは対照的に、ある種、涼しげな女王然とした威厳を醸し出していた。日本にロイヤルアスコット [イギリス王室主催の競馬イベント] があれば、彼女は花形だろう。

「いつもじゃないが」と、私は答えた。「少しの間、ここで人を待っているから、この犬と似た者同士だと思ったんだ」

「そのたとえ、無理があるわね。遅れたけど——私、死んでないから。後をつけられていないか気にしていたら、時間がかかったの」

「君が——健?」

「そう」と言って、彼女は手を差し出した。「少なくとも昔はね。これからはココって呼んでちょうだい」

私はその手を取り、軽く握手をした。友人のクリスもクロスドレッサーだったから、ジェンダーの入れ替えにはまったく驚きはしない。女に扮したクリスは不気味なほど真に迫っていて、クラブでジャズのスタンダードやミュージカル曲を歌うトーチシンガーとしてよく舞台に立っていた。だが、彼の場合、それはパフォーマンスでしかなかった。ココの場合は明らかに、全面路線変更のようだ。

「わかった」と、私は言った。まったくもって私が口出しすることではないが、好奇心からか、単に面食らったのか、私の表情が変わったのだろう。ココは説明を始めた。

「私はクリスみたいなドラァグ(ヽヽヽヽ)じゃなくて、トランスなの。はっきり分かったのは、アメリカを離れて日本に戻る前。それも理由でクリスとは別れたの」

「クリスが女性とはデートしたくなかったってこと?」

「ううん。彼のことは大好きだったけれど、私はストレートの人が好みだから」

「そうか」私はせわしなく行き交う人の波を見回した。身にこたえる暑さの中でも、ビジネスマンの多くは黒っぽいスーツとネクタイを身に着けていた。若者はもっとラフな、個性のある格好をしているが、どの世代も高い割合でマスクをかけている。パンデミックの間に培ったマッスルメモリーの効果というより、マスクを自己表現の手段にしているようだ。表面に動物の鼻のアニメ柄がついたマスクの者もいる。

「尾行されていないか心配だと言ったね」と、私は言った。「どこか別の場所に移ろうか」

「青ガエルまで行きましょう」彼女は、ハチ公から数メートル離れたところで、台の上に鎮座した、古い緑色の一両の路面電車に視線を向け、あごを軽くしゃくってみせた。

「青ガエル?」
「緑のカエルみたいでしょ。路面を走っていたとき、その愛称で呼ばれていたの。観光案内所が入っているけど、乗客用シートもまだ残っているから、あそこに座って話をしたら観光客しか居ないわ」

「じゃ、ついて行くよ」

私たちは、車両まで人混みを縫うように進んで広場を横切り、一段の金属製のステップ台を上がって中に入った。入り口を入ってすぐのところにあるカウンターには、真っ白な髪をボウルカットにした年配の日本人男性が座っている。彼は、いかにもアメリカ人といった巨体の観光客を相手に、たどたどしい英語で東京ディズニーランドへの行き方を説明しているところだった。私たちは一列になってその傍(そば)を通り過ぎ、大量に置かれたパンフレット、ハローキティのポスター、そして今にも壊れそうな扇風機の横を抜けて、車両脇のロングシートにたどり着いた。ココが滑るように座ったのに続き、私はその横にドスンと腰掛けた。

彼女が膝の辺りでドレスのフリルを寄せて整える間、そのむき出しになった色白の、ほっそりとした、均整の取れた足に目をやらずにいるのには努力が必要だった。心理学者が〈認知的不協和〉と呼ぶ状態がどういうことなのか、このとき初めて思い知った。

ココからメールを受け取ったのは二週間あまり前のことだ。(まだ以前の名前で送られてきた)そのメールで、彼女はクリスとの関係を明かし、ヤクザ絡みの深刻な事態になったので、私に東京に来て調査の手助けをして欲しいと依頼してきた。私は日本語を話さないし、アメリカ国外に出たこともなく、日本の警察と公式な関係があるわけでもなく、手助けの術(すべ)が分からなかったので、返信して、その通りを伝えた。

すると、私の牙城、サンフランシスコの人物が関わっているのだと返事が戻ってきた。詳しいことを聞いて、私がすぐさま踵(きびす)を返して帰国することにしたとしても、東京までの旅費はすべて彼女が持つという。正直なところ、クリスが殺されてからというもの、私は舵取り役を失い、無為な日々を送っていた。パームスプリングスでクリスの殺人犯を見つけ出して懲らしめてやり、サンフランシスコに戻ったものの、まったく仕事をしていなかったのである。だが、今回の呼びかけには忠犬ハチ公のように反応した。

ココが様子を伺うように私を見つめている。「すぐに言い出せなかったけど、クリスが亡くなって、本当にやりきれないでしょうね。あなたのことや二人の関係については、彼から話を聞いていたわ。ショックだったでしょう」

「そうだね、特に喧嘩もしていたし。会わなくなって五年にもなっていた」

「彼から聞いたわ。あなたのせいではないとも言ってた」

「それは助かった」私はシートにどさりと背中を預けた。時差ぼけに加え、屋外の蒸し風呂で銅像の見張り番をしたせいで、疲労が限界に達している。路面電車の天井になんとなく目をやると、口のないハローキティの巨大な顔のイラストが表面を覆っている。「二人がどこで知り合ったか聞いてもいい?」

「サンフランシスコ近代美術館の展覧会で会ったの」

「君、かなり若いよね?」

彼女は笑った。「え? 年の差恋愛、したことないの?」

「成功したことはないね。まあ、私はいつも年上のほうのお役目だが。クリスがグレッチェン——彼の探偵業の相棒——に話したことのまた(ヽヽ)聞き(ヽヽ)だけど、君が来日したのはソニーに就職したからだって?」

ココは、通路の向かいの窓に映った自分の姿を見ながら帽子の角度を直して、私のほうに向き直った。「質問するのがお得意ね」

「たいがい、私立探偵としては望ましい特徴だとされているけどね。単に背景を把握しておきたいだけだ」

「分かったわ。少し遡(さかのぼ)って説明したほうがいいかしら。私はここで生まれたの。日本人だけど、小さいときに親の仕事でアメリカに引っ越して、 基本的にはこれまでずっと、二つの国を行ったり来たり。高校はアメリカだったけど、大学はこっちで卒業して、クリスと出会ったのはベイエリアのテクノロジー企業で働いていたとき。帰国後は少しソニーで働いていたけど、性転換手術を始めたから辞めちゃった」

「今は何の仕事?」

「ホステスバーで働いてる」

「それって、つまり、ビジネスマンの接客してるってこと?」

「そうよ。おしゃべりして、悩みを聞いてあげて、下ネタのジョークを飛ばして、これが一番大切なことだけど、お酒を奢(おご)ってもらう仕事」

「それには——」

「セックス? お客さんはもちろん、みんな望んでいるけど、バーのオーナーから要求されたり期待されたりすることはないわ。どこまでお客さんと関わるかは、女の子それぞれが決めること。それから、聞かれる前に言っておくと、答えは〈イエス〉。お客さんとセックスすることになったら、必ず前もってトランスジェンダーだと伝えるわよ。でも、トランス女性と関係を持つなんてめったにないから、たいていの人が、私が男性だったなんて想像もしないみたい」

メールのやり取りから、暇なときにはコンピューターゲームをしている筋金入りのオタク、〈健〉をイメージしていたが、これほどまでに読み違えるとは。「でも、ソニーの技術職に比べたら——その——儲からないんじゃ?」

彼女は首を横に振って、笑いをこらえるように口元をきゅっと引き締めた。「ちょっとぉ、日本企業の開発者の給料で、ここに来てもらう旅行費、全部負担できると思っているの? ソニー時代の五倍は稼いでるわよ。その一部は、お客さんにあげるちょっとしたプレゼントや何か——靴下とか、ハンカチとか、タバコに消えちゃうけど——それでも快適な暮らしだわ」

私は通路の向こうにある受付カウンターのほうを振り返った。巨漢のアメリカ人の代わりに、着物をまとったアジア系ではなさそうな国籍不明の女性が立っている。入って来たときに、「着物レンタル一日体験」のチラシがあったから、きっとそのお客だろう。私はココのほうに視線を戻した。「予備情報をどうも。調査する件に、バーは関係してるの?」

「どういう意味?」

「そういう所ってヤクザが経営してるんだろ?」

「たいていはね。でも、全部じゃない。正直、よく知らないわ。それは自分で調べてちょうだい」

「他に調べて欲しいことは?」

彼女は両手を握りしめた。「これって、ちょっと話しづらいんだけど。性別移行には、いくつかのステップがあるのよね。私の場合、ホルモン治療を受けていて、これまでに豊胸手術、喉頭隆起削除術、精巣摘出手術が終わって——」

「最後の二つ、何だって?」

「いん(ヽヽ)とうりゅう(ヽヽヽヽヽ)きさく(ヽヽヽ)じょじゅつ(ヽヽヽヽヽ)は、喉仏(のどぼとけ)を小さくする手術。せいそう(ヽヽヽヽ)てきしゅつ(ヽヽヽヽヽ)しゅじゅつ(ヽヽヽヽヽ)は、睾丸を取る手術」

きまりが悪くなった私は、シートの上で、もぞもぞ体を動かした。「ほう」

「でも、まだ最後の手術がまだなのよね、あの——」彼女は口ごもった。

「プラグAをソケットBに変える手術?」

彼女は顔をしかめた。「クリスから聞いてはいたけど、あなたに慣れるのには時間がかかりそう。でもまあ、そういうこと。ある意味、日本に戻って来たのは、この手術で世界的に有名な福嶋先生がいるからなのよね。だから何度か予診を受けて、先月、手術の予約を入れたわけ。そうしたら、予想もしないことが起きてね」

「予想もしないって?」

「クリニックの看護師が私を訪ねてきたの。頼むから手術をキャンセルして、二度と戻って来るなって言うのよ」

「なんで?」
「教えてくれなかった。でも、その間ずっと、すっごくソワソワしていて、会いに来たことを誰にも言わないようにって約束させられちゃった。もう、びっくり。どっちにしても、私、手術には不安があって——そもそも勇気を出してクリニックに行くまでに数か月かかったから——言われた通りにしたの。でも、その直後に尾行されていることに気づいたのよね」

「誰に?」

「どう見ても殺し屋みたいな人たち——ヤクザっぽい感じ」

「他には何かあった?」

「あったわ。誰かに車で轢(ひ)かれそうになった。バーから帰宅する途中、 タクシーを拾おうとしたらね、止まって乗せてくれるんじゃなくて、縁石を飛び越えてきたから、私、植え込みに体ごと突っ込んじゃった」

「警察には通報した?」

彼女はうなずいた。「暖簾(のれん)に腕押しだけど。あのね、日本の政府は〈戸籍〉っていうもので全国民の情報を保管しているの。出生証明書と、婚姻証明書と、離婚証明書を組み合わせたようなもの。ようやく法律が通って、トランスジェンダーの人が戸籍の性別を変更できるようになったんだけど、警察は記録すべてにアクセスできるじゃない。だから、私の経歴、あっという間にバレちゃった。コンピューターから顔を上げた時の警官のしたり(ヽヽヽ)顔、今でも忘れられないわ」

「じゃ、捜査しなかったってことか」

「たぶん偶然の事故だろうって言っただけで、それから音沙汰ないわ」

「さっき言ってたベイエリアとのつながりは?」

「あ、そうそう。待合室にいたら、福嶋先生が一人のアメリカ人と一緒に出てきたの。 英語で話していて、ドクター・タイテルバウムって呼ぶのが聞こえたから調べてみたら、サンフランシスコを拠点にしている外科医だった」

私は腕の内側で額の汗をぬぐった。この話は予想外の展開だった。私は、まるでタージ・マハルに行く途中で曲がり角を間違えて、キャッスルバウンサー [子どもが中に入って遊べる空気で膨らませた遊具] にたどり着いた観光客のような気分になった。「どうなんだろう、ココ。看護師が会いに来た理由なんて、いくらでも考えられる。医者に腹を立てて、その仕事の邪魔をしたかったとかね。他のことも、尾行者を見つける、つまり、尾行されていることを特定するのは必ずしも簡単ではないし、タクシーの件は事故だった可能性もある」

ココは落胆と苛立ちの入り混じった様子を見せた。だが、彼女が反論しようと口を開いた瞬間、車両の入り口が騒がしくなったかと思うと、予想をはるかに超える形で、彼女の主張の正当性が証明された。

マスクを着けた、ひょろっとした男が青ガエルに乱入してきたのである。着物の女性を床に押し倒すと、丸めた新聞から突き出したナイフを振りかざしながら、こっちに向かって通路を突進してきた。十年前なら、私は飛び上がって正面から対決しただろうが、時差ボケもあるし、六十に差し掛かり、膝の痛みや高コレステロールを抱える身だ。まっしぐらに車両の反対側に向かい、壁から消火器を引っ張り出して男のむ(ヽ)こうずね(ヽヽヽヽ)に一撃させるだけで精一杯だった。

男は悲鳴を上げて、体を丸めた。私はその隙に、履いているフローシャイム [アメリカの老舗(しにせ)革靴ブランド] で、その頭頂部に不意打ちを食らわせた。男はあおむけに倒れ、その拍子に手からナイフが滑り落ちたが、どうにか入り口まで後ずさりした。そして、よろめきながら立ち上がると、足を引きずりながら外へ逃げた。

かがみ込んで膝に手をつき、息を切らしてハアハア言っている私には、男を追いかける余力などもう残っていなかった。

ココは路面電車の荷物棚の下で、シートの上にしゃがみ込んでいた。飛び乗ったときに網棚にぶつかったのか、麦わら帽子がぺちゃんこになっている。「どこまで話したっけ?」